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週刊フェニックス

みなさん、こんにちは!No.3の伊藤聖哉です。

新入社員研修が終わり、配属先が決まって新しい環境での活動が始まりました。
少しずつ慣れてきましたが、まだまだ奮闘中の伊藤です。

さて、【自分の生い立ち】シリーズということで、私の生い立ちについて紹介します。
前回の私の週刊フェニックスでも紹介したのですが、私は三重県の菰野町という田舎で生まれ、小、中、高を三重県で過ごしました。

菰野町では「こもしか」というニホンカモシカをモチーフにした可愛いキャラクターが地域のPRをしてくれています。TwitterやYouTubeもやっているので、ぜひ見てみてください!そしてコロナが落ち着き、三重県に行く機会があれば菰野町に足を運んでみてください。ロープウェイから観る素晴らしい景色やキャンプ場などアウトドア好きな方にオススメです!

話を本題に戻して、私は小さい頃、ハンドボールだけでなく日本拳法や陸上、ちびっ子相撲など多種多様なスポーツをする運動好きな少年でした。ちびっ子相撲では優勝したこともあります。

ちびっ子相撲(投げている方です!)

押し出しはなく、ひたすら投げて、投げての投げ技で優勝していました。優勝しても賞品はイオンの商品券だったので、全然嬉しくなかったのを覚えています。母が喜んでいましたね!(笑)

日本拳法2位で悔しい顔(左から2番目)

日本拳法では、小学生の頃はずっと2位で悔しい思いをしていました。改めて子供の頃の写真を見ると思いのほか周りの子と体格差がありますね(笑)今だったら勝てるかも……。
フェニックスのメンバーには意外と武道経験者が多くびっくりしましたが、もしかしたら武道で鍛えられた身体の使い方や体幹の強さがハンドボールに生きているのかもしれませんね。

このように小学生の頃は色々なスポーツをやっていましたが、中学生に上がると同時にハンドボールに集中しようと、他の習い事はやめました。

中学は地元の菰野中学に進み、トヨタ車体の豊田選手とともにハンドボールの練習に励みました。高校も三重県にある四日市工業高校に進み、春の選抜大会では四日市工業高校で初の全国大会入賞を果たしました。

この頃からハンドボールを選んで良かったと思うようになりましたが、全国大会で優勝したことがなかったので大学進学を決意し、日本一を目指して筑波大学へと進みました。
最終学年でインカレを優勝した時の感動は言いあらわせないほどでした。
そして、あの感動をもう一度味わいたくて大同特殊鋼に入社し、フェニックスの一員になりました!

初心を忘れず頑張ります(小学生時代)

最後に、先日、日本リーグの試合日程が発表されましたが、再び新型コロナウイルスが流行の兆しを見せており、まだまだ不安なことが多いと思います。
そんな時だからこそ、自分たちのできる最大限のプレーをして、みなさんと感動を共有したいと思いますので、これからも応援をよろしくお願いいたします。

7月29日(水)から夏季休暇に入りますので、次回の週刊フェニックスは8月18日(火)に更新予定です。

お知らせ

トピックス

毎週土曜日に中京テレビで放送されている番組「アス友」に東江選手が出演します。
東江選手の出演は2019年春の放送以来、2度目です。

出演者のみなさんと

この番組は東京オリンピック・パラリンピックなど、世界を目指すアスリートのもとをタレントのヒロミさんとみやぞんさんが訪問し、アスリートの凄さや素顔を探り、友だちになるという番組です。

今回は2度目ということで、東江選手が試合でも使っているスゴ技にみやぞんさんが挑戦しました。
フェニックスが練習に励んでいる大同特殊鋼星崎工場体育館行われた収録の様子は8月8日の放送を予定しています。みなさん、お楽しみに!

なお、放送後に無料動画配信サービス「Locipo」で視聴することができますので、放送エリア以外にお住まいの方や見逃してしまった方も、ぜひご覧ください。

撮影の様子
放送日時 8月8日(土) 23時30分から23時55分(予定)
放送局 中京テレビ(※放送エリアは愛知・岐阜・三重です)
番組名 アス友
出演者 ヒロミさん、みやぞんさん(ANZEN漫才)、平山雅アナウンサー

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みなさん、こんにちは。
No.12の久保侑生です。

新型コロナウイルスが再び流行し始めてきました。
一人ひとり感染予防に努め、感染拡大を防いでいきましょう!

さて、今回は私自身の生い立ちについてご紹介したいと思います。

私は1988年5月24日に生まれ、大分県大分市で育ちました。
小さい頃から外で遊ぶことが大好きで、野球やサッカーなどをして、毎日暗くなるまで遊んでいました。
小学校に入ってからは、硬筆、そろばん、サッカー、空手と多くの習い事をさせてもらっていましたが、4年生の時に2つ下の妹が友人に誘われたことをきっかけに、宮崎大輔さんと同じ大分市立明野北小学校でハンドボールの競技生活をスタートしました。
当時、周りの子より身長が大きかったこともあり、入部後すぐに勧められてゴールキーパーを始めました。
小学校5年生の時には、熊本県で開催されたシドニーオリンピックのアジア予選を観に行き、ハンドボールに日本代表があることを知り、その代表選手の凄さに憧れたことを今でも覚えています。

小学生時代(1番大きい1番です!)

その後、明野中学校に入り、空手とハンドボールの両方を続けていましたが、中学1年生の夏にハンドボール一本に絞ることを決心しました。
中学3年生時は、トヨタ車体の渡部選手、ジークスター東京の新名選手と一緒に明野中学校男子ハンドボール部初の全国大会出場を果たし、全国大会デビューをしました。
中学校3年生の時には、フリースローと7mスローを打つ「2刀流ゴールキーパー」と一瞬話題になったりもしました。

空手の道着姿です(中央でトロフィーを持っています)

高校は全国的にも有名な大分国際情報高校へ進学しました。
高校では、これまでの練習量とは比較にならない一日6時間の練習や年間でも数えるほどしかない休日と、とてもハードな毎日でしたが、全国大会優勝を目標に毎日努力しました。
しかし、高校2年生のインターハイ予選では20数年振りに県予選敗退という屈辱を味わい、その後、1年間必死になって練習し、3年時のインターハイでは、3位入賞することができました。特に、準々決勝の北陸高校戦は最後の最後までどちらが勝つかわからない激闘でした。(平子選手が北陸高校のスーパー1年生として出場しており、シュートを決められた後にパフォーマンスで投げキッスされたことは今でも忘れません……)

高校時代(前列左から3番目)

大学は教員免許取得のため、勉強とハンドボールの両立を考え、筑波大学に進学しました。入学した時には、フェニックスOBの田中さんが2つ上におり、プレー面で毎日勉強することばかりで、とても成長できたと感じています。

大学時代は1年生から3年生までインカレでベスト4に入ることができましたが、4年生時は2回戦で優勝した国士館大学に敗れ、悔しい思いをしました。勉強面では必死に頑張った甲斐もあり、無事に卒業することができました。

小学校から大学まで、嬉しい思いや悔しい思い、たくさんの経験をすることができました。
そして大学卒業後の進路は、小学生の頃からの憧れであり、高校生の時から声を掛けてくれていた大同特殊鋼に決め、現在に至ります。

みなさん、いかがだったでしょうか。
ここまで私のハンドボール人生を初めて振り返りましたが、とても懐かしい気持ちになりました。あと何年現役としてプレーできるかわかりませんが、1プレー1プレーを大切にこれからも頑張っていきます。

最後になりますが、今シーズンも日本リーグの開催が決まりました。
コロナ禍で、これまでの観戦形態と違った状況での開催となることも十分予想されますが、今シーズンも変わらぬご声援をよろしくお願いします。

 
さて、2007年から始まった週刊フェニックスが今回で「600号」に到達しました!
600号を記念して、普段から応援してくださっているみなさんの中から抽選で3名の方に、フェニックスの選手全員のサイン入りTシャツをプレゼントします。
プレゼントご希望の方は、フェニックスホームページの「応援メッセージ」から「600号記念プレゼント応募」と記入いただいたうえで、メッセージを送ってください!

応募期限は7月28日(火)到着分までとさせていただきます。

なお、当選者の発表は商品の発送をもって代えさせていただきます。たくさんのご応募をお待ちしています。

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みなさん、こんにちは!
自粛期間中に体を作り直し、筋肉量は落とさず10kg減量したNo.6加藤です!
加藤式ダイエットを知りたい方は、ご連絡ください!私のメソッドを伝授します!笑

さて、【自分の生い立ち】シリーズも何名かの選手が書いてきましたが……、やっと私の順番が来ました!早く順番よ、来い、来い!と、ずっと思っていました笑

わずか30年余りの人生ですが、「加藤嵩士」がいかにして形成されたかご紹介させていただきます。

では、数あるテーマの中から、今回は3つのテーマに絞ってお話します。

テーマ1:実写版ライオンキング!
テーマ2:スーパー建築士!少年・加藤!
テーマ3:挑戦!ヤオスッ!エホーイーハー!

それでは、「実写版ライオンキング!」からご紹介していきます。

加藤家の3人兄弟の末っ子として、私「嵩士」が誕生しました!
母にどんな赤ちゃんだったか聞くと、「よく泣いて、なかなか寝ない子だった……。」と言われました。今はどこでも一瞬で寝てしまうので、「本当かなぁ」と思いましたが、かなり両親を困らせていたそうです!笑

優しい両親と兄弟のもと、すくすくと成長するBABY嵩士でしたが、成長するにつれて、髪の毛にある特徴が出てきます……。

それは……、

ものすごい直毛です!

無重力!まさにタテガミ!そう、「ライオンキング」です!

今でも髪の毛を短くすると本領を発揮しますが、小さい時の直毛はその比ではありません。そして、この直毛DNAはしっかりと我が息子にも遺伝しておりました!笑
まさに「ライオンキング2」!

直毛DNA

その後のBABY嵩士は、タテガミを揺らしながら、まさに動物のように東海市の自然あふれる街中で元気に成長していきました!

そして、「スーパー建築士!少年・加藤!」へと話は進みます。

悩む少年・加藤

少年・加藤を語るうえで欠かせないものがあります。それは「レゴブロック」です!

幼少期から中学に上がる前くらいまで、本当に朝から晩までずっとレゴブロックで遊んでいました。レゴブロックで自分の描く世界や建物、乗り物を作ることが大好きで、毎日何を作ろうか悩みながら、黙々と作品を作りあげていました。

レゴブロックの世界の中では、少年・加藤はまさにスーパー建築士!
一軒家を1時間余りで建て、そして自家用車も2台作成していました!

今でも時間ができたら、レゴブロックをやりたいと思っているほどですし、息子がもう少し大きくなったらレゴランドにも行きたいです!(私が行きたいだけですが……笑)

レゴによって知能も育成された少年・加藤に、いよいよ人生の転機が訪れます!

それでは最後のエピソード「挑戦!ヤオスッ!エホーイーハー!」です。

すくすく成長し、小学校まではサッカーをしていた少年・加藤ですが、中学校でハンドボールに出会います。

まさかこの出会いから、30歳を超えるまでハンドボールを続けるなんて想像もしていませんでしたが、出会った時からハンドボールの魅力にとりつかれていました!

中学を卒業する頃には「強いところでハンドボールがやりたい!」と思うようになり、両親に愛知県No.1の愛知高校に入りたいと話し、強豪校でハンドボールに挑戦することに決めました!

中学生時代は県大会にも出場できないレベルだったので、入学した当初は練習についていけず、周りは名古屋中から集まった上手な選手ばかりいる状態が本当に辛かった思い出があります。

そんな中でも顧問の川瀬先生やチームメイトに支えていただき、なんとか3年間ハンドボールを続けられ、その後も大学、社会人まで続けることができました!

高校の3年間がなければ、今の自分は無いと思っています。川瀬先生には「社会に出て役に立つ」という理念のもと、ハンドボールだけでなく、生活面に至るまでご指導いただきました。

そんな充実した愛知高校でのハンドボール生活ですが、入学して驚いたことがあります。
それは「クセのある挨拶とかけ声です!」笑

愛知高校ハンドボール部では「おはようございます。こんにちは。こんばんは。」のすべての挨拶をまとめて「ヤオスッ!」と言います。

語源等は誰も知りませんし、聞いたこともありません。

とにかく「ヤオスッ!」と教えられるので、街中で先輩に会っても「ヤオスッ!」と言います!それもかなりの声量です!

そしてもう一つが、練習中の掛け声です。
普通は「頑張りましょう!」とかですが、クセの強い愛知高校ハンドボール部は違います!
「エホーイーハー!」です!イントネーションは各々ですが、ベースは一緒です。
こちらも語源等は誰も知りません。

「エホーイーハー!」の「ハー!」のところ

入学前に行われる事前合宿で、先輩たちによる「ヤオスッ!」と「エホーイーハー!」の発表会が毎年開かれ、そこで各々の「ヤオスッ!」と「エホーイーハー!」を先輩たちが見本でみせ、アドバイスをいただきます。
先輩たちの生エホーイーハー!を聞いた時は「こ、これがエホーイーハー!か……。すごい。」と、その迫力に衝撃を受けた記憶があります。本当にいろんな刺激を受けた高校時代でした。

そして、さらにハンドボールにのめり込んだ私は、大学では公務員を目指しながらハンドボールを続けたいと思い愛知大学に進みました。

4年生の時には消防士になることが決まっていましたが、同時期に大同特殊鋼から声をかけていただき、最後までどちらの人生を選択するか悩みました。

本当に最後まで悩みましたが、自分の好きなことは何だろうと考え、「やれるところまでハンドボールをやろう!やりたい!」と思い、大同特殊鋼に入ることを決めました!

短く書くつもりだったのですが……笑
これがBABY嵩士から大同特殊鋼に入社にするまでの加藤の生い立ちとなります!

最後に、これからのシーズンについてですが、今年は新型コロナウイルスの影響により、日本リーグの開催も心配されていましたが、予定通りの開催が決定しました。さまざまな大会が中止になる中、私たち実業団の試合が開催される意義や責任もしっかりと考えて臨んでいきたいと思っています。

そして今年こそ、日本一を目指しチーム全員で気持ち前面に出して戦う姿をお見せし、フェニックスを応援してくださるみなさまと一緒に喜びを分かち合いたいと思います!

これからも応援よろしくお願いいたします!

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みなさん、こんにちは!
先月、ついに三十代の仲間入りを果たしましたNo.11の平子です。
【自分の生い立ち】シリーズもついに私の番となりました。
では、早速自己紹介していきたいと思います。

私は1990年6月14日に三重県で生まれ、鈴鹿市の田舎町でのびのびと育ちました。
小さい頃からボールで遊ぶのが好きだったようで、どこに行くにもお気に入りのボールを持っていっていたようです。

こんな可愛い時代もありました!

そんな私が友人の誘いなどもあり、ハンドボールを始めたのは小学3年生からです。
小学生時代は、当時日本リーグに参戦していた本田技研が地元のチームとして活躍していて、そこに在籍していたステファン・ストックランという選手が大好きで、将来あんなすごい選手になりたいなという想いが芽生え始めました。

そんな想いがあり、本来通う予定の中学にハンドボール部がなかったため、ハンドボール部がある中学校に進学しました。
東海地方のハンドボール事情として、「打倒・愛知県!」というのが、愛知県以外の東海圏の中学校の目標で、「なんとか愛知の中学校に勝ちたい!」という思いでハンドボールをしていました。
結果は負けっぱなしで、全国大会に出場したのも3年生の時に参加したJOC(ジュニアオリンピックカップ)のみで、総じて少し悔いが残る結果の3年間でした。

中学校時代は点取り屋でした!笑

中学生時代から試合結果にこだわるようになり、「日本一になってみたい!」という気持ちを抱くようになり、ハンドボール人生に悔いを残したくないと思い、高校は全国から有望な選手が集まる福井県の北陸高校に進学を決めました。それと同時に住み慣れた鈴鹿を離れ、寮生活が始まりました。
寮生活で感じたのは「親のありがたみ」です。「将来、絶対に親孝行しよう」と、この時に心の中で誓ったのを覚えています。
肝心なハンドボールの方は、中心選手として日本一を3回も経験し、全国大会で最優秀選手に選ばれるなど……、ひとことでいうと順風満帆でした!笑

レアな坊主頭です!笑

その後は日本体育大学に進学をしました。
大学時代は、両膝の前十字靭帯を断裂するなど怪我に悩まされ、この先の人生でハンドボールとどう向き合っていくか、自分自身の身体とどう付き合っていくかということを深く考えさせられました。
そんな時に頭によぎるのは、やはりこれまで支えてもらった両親を含め、お世話になった方々の顔であり、「ここでやめたらこれまで積み上げてきたものが台無しになってしまう」、
「これまで私を育ててくれたといっても過言ではないハンドボールで、何かしらの恩返しや頑張っている姿を見せたい」と思うようになりました。
そんな思いから、せっかくやるなら、より高いレベルでやりたいと思い、大同特殊鋼に入社し、現在に至ります。

約20年間、ハンドボールをやってきて、自分の力だけではここまで続けるのは難しく、様々な方の支えがあったり、色々なことを犠牲にしたりしてきているので、この先のハンドボール人生においても悔いが残らないように頑張っていきたいと思います!

みなさん、これからも引き続き応援よろしくお願いします!

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みなさん、こんにちは。No.7久保龍太郎です。
世間では様々な取り組みが増え、息苦しい日々が続いていますが新しい生活様式、”withコロナ”には慣れたでしょうか?
気温も高くなり、マスクを付けて過ごすことも苦しくなってきましたが、熱中症に十分注意して頑張っていきましょう!!

今回は【自分の生い立ち】シリーズ、久保龍太郎編です!

私は久保家の長男として1990年5月15日に3,312gで産まれました。
小さい頃から何事にも好奇心旺盛、体を動かすことが大好きで、よく祖父母と山登りをしていたようです。

祖父と山登り

ハンドボールとの出会いは小学3年生の時でした。
小学校主催のドッジボール大会で、香川町ハンドボールスポーツ少年団オリーブくんの平木監督(当時)に声を掛けていただき、私のハンドボール生活がスタートしました。週1回の練習でしたが、みんなでワイワイ楽しむスタイルが自分に合っていました。

次に中学は、たまたま学区内に県内強豪校の香川第一中学校があり、進学しました。
この頃は仲間と一緒にハンドボールをすることが楽しくて、あまり勝ち負けに執着がありませんでした。
しかし、2年生の時に大阪で開催されたJOC(ジュニアオリンピックカップ)で衝撃を受けた事をきっかけに私のハンドボール観がガラリと変わりました。
それは、ジークスター東京に所属する信太さん率いる茨城選抜と対戦したことです。
試合結果は40対20くらいでコテンパンに負けてしまいましたが、試合に負けて悔しかったことよりも試合中、信太さんと対峙した時に「ダメだ、この人には心・技・体、全てにおいて勝てない」と素直に感じたことにすごく悔しい気持ちを覚えました。
それからは試合に負けたくない、相手選手にも負けたくないと思うようになり、この頃から強くなりたい、勝ちたいと思い、ハンドボールに取り組むようになりました。

そのような思いから、高校は全国大会の常連校、香川中央高校に進学しました。
練習量、練習時間ともに想像をはるかに超えており、入部当初はついていくので精一杯。夏休みもほぼ毎日、炎天下の河川敷で朝から晩までドロドロになりながら練習に励む、ハンドボール漬けの高校生活でした。部員全員が3年間、 “坊主”だったことも今では良い思い出です。笑
高校では河合監督のもと、仲間を大切にする心や泥臭くクレバーなハンドボールを学びました。

高校時代(2番)

大学は、ハンドボールの第一線でプレーすることと、将来、河合監督のような熱い体育教師になるという2つの目標を叶えられるのはココしかないと思い、早稲田大学への進学を決めました。伝統ある大学に入学できたおかげで多くの方々と知り合い、早慶戦など大学のビックイベントにも多く参加でき、素晴らしい大学生活を過ごすことができました。
また、学業と部活動を両立させる大切さを学べたことで、人間的に大きくなれたと感じています。
余談ですが、実技授業では瀬戸大也選手に水泳を、大迫傑選手に陸上を教えてもらったこともありました。良い思い出です。(完全にミーハーですね!笑)

大学時代(2番)

そして、社会人は仕事とハンドボールの”二足のわらじ”で、アマチュア精神を大切にする社風に惚れて、大同特殊鋼に入社を決めました。
色々な壁にはぶつかりますが、自分で目標を立て、「やればできる精神」で前向きに取組んでいます。現在では、家族という守るべきものも増えたので、今以上にfightできそうです。これからも頑張るぞー!

ここまで生い立ちを書きましたが……、これほど幸せで楽しいハンドボール生活が過ごせているのも色々な方との出会いがあったからです。

全世界に70億人の人がいるといわれていますが、その中で何らかの接点を持つのが30,000人、学校や仕事などを通じて近い関係を持つのが3,000人、親しい会話ができる関係が300人といわれています。この数字を見て分かると思いますが、出会いは奇跡です。
これからも一つひとつの出会いを大切にして、前向きに生活していきましょう。

ありがとうございました。

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みなさん、こんにちは。先週、誕生日を迎えたNo.4の藤江です!
まだまだプレゼント、お祝いメッセージ受け付けております!

新型コロナウィルスによる緊急事態宣言も解除され、少し落ち着いて来たのかなと思いますが、まだ不安定な状態が続いておりますので、今後も気を抜かずしっかりと予防を心掛けていきましょう。

さて、早速【自分の生い立ち】シリーズに入っていきたいと思いますが、過去の週刊フェニックスで小学校編について触れましたので、今回はそれ以外の時期について書いていきたいと思います。

エンジェル藤江(左)。(右は兄です!)

私は母の地元である秋田県で生まれ、その後は福井県で育ちました。
幼少期は基本的に身体を動かすことが大好きだったので、いつも兄の後ろを勝手についていき、兄やその友達と外でサッカーや追いかけっこなど、活発に遊んでいた記憶があります。今思えば、そんな感じで小学校までハンドボールもしながら元気に過ごしたことで、ハンドボールに必要な身体の土台が作れたのかなと思います。

中学校では、私が元々行く予定だった学校にはハンドボール部がなかったので、最初はサッカー部かバスケ部にでも入ろうと考えていましたが、隣町の学校にハンドボール部があるということを知り、光陽中学校に行くことを決めました。3年時には春、夏、JOCと全国大会に3度出場することができましたが、春は池辺選手が所属する茨城県のけやき台中学校にダブルスコアで負け、夏は初戦敗退、JOCも予選リーグ敗退と、何1つ満足のいく結果を残すことができませんでした。

しかし、そうやって全国で色んなチーム、選手と戦えたことや、その中で結果を残せなかった悔しさもあり、もっと上手くなって試合に勝ちたい!という思いが強くなり、必然的に地元にあるハンドボールの名門・北陸高校にいくことを決意しました。
しかし、北陸高校は県外からも多くの選手が来ることもあり、みんなレベルが高く、試合に出してもらっても足を引っ張ってばかりでした。なんとかチームに貢献したいという思いでひたむきにトレーニングに取り組み、高校3年生の時には春の選抜優勝、夏のインターハイ準優勝、秋の国体優勝と、2冠で終えることができました。

高校は3年間坊主でした

北陸高校で結果を残すことができた自分は、よりレベルの高いところにいきたいという思いがさらに強くなり、数多くの日本リーガーを輩出しているハンドボールの名門・日本体育大学に進学しました。日体大は先輩、同期、後輩と本当に上手な選手ばかりで、チームメイトと切磋琢磨しながら自分の技術を磨くことができるとても良い環境でした。2、3年生の時はレギュラーメンバーとしてインカレ連覇に貢献することができましたが、4年生の時は準決勝で敗れてしまい、3年連続優勝を逃してとても悔しい思いをしました。

大学時代(さりげなく石橋選手と2ショットです!)

この無念を晴らすべく実業団でもプレーしたいと思い、小学校時代からの憧れであった末松監督に誘っていただいて大同特殊鋼に入ることができました。末松監督には色々な技術を教えていただき、時には辛いこともありましたが、今の自分に全て活きていると感じています。

こうして振り返ると、まだまだ書き切れないことがたくさんありますが、とても懐かしい気持ちになりました。

今後も初心を思い出して、頑張っていきたいと思います。

現在、フェニックスは練習を再開し、ハードなトレーニングにも取り組んでいます。
もうすぐ7月に入るということで、少しずつ気温が高くなってきましたが、今シーズン1つでも多くのタイトルを獲ることができるよう、しっかり準備をしていきたいと思います。

みなさん、応援よろしくお願いします!

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みなさん、こんにちは。No.2の杉山です。
徐々に普段の生活を取り戻しながら、「新しい生活様式」にも少しずつ順応してきているところではないでしょうか。しかし、まだまだ油断できない状態ではありますが「withコロナ」で共に生きていくという前提で自分を守りながら日々の生活を送っていきましょう!

ということで、今回は【自分の生い立ち】シリーズ第4弾「杉山編」を完全ノーカット版でお送りしたいと思います!!

 Here we gooooooo!!!

私は、杉山家の第3子で1991年7月3日にbirthしました。
小さい頃は毎日、祖父の畑に行き裸でカエルやザリガニを捕まえて遊んでいたそうです。
 

進撃の杉山

兄と姉の影響で、私も幼稚園の年長から習字を習い始めましたが、全く上達しませんでした。実はこの習字教室でNo.6加藤選手と出会っていたんです!
しかしこの時は、お互いのことは知らず、仲良くなったのは私が小3、加藤選手が小5の時で、母がやっていた「ママさんビーチボールバレー」がきっかけでした。あの時の加藤選手は……。
おっと、このままでは、加藤嵩士memoriesになってしまうので割愛します。

私が小2の時に、大同特殊鋼フェニックスOBの方が指導してくださる「東海ハンドボールスクール」というクラブチームが地元にでき、母が昔ハンドボールをやっていたこともあってハンドボールを始めました。
初日に緊張して、モジモジしながら目をパチクリさせていたことからコーチに「パチクリ」とニックネームを付けられ、それから28歳になった今もずっとチームメイトから「パチ」と呼ばれています!
濱野監督には、ハンドボールについては勿論のこと、礼儀や人として大切なことを教わりました。
一度だけ、嘘をついて練習を休み、中日ドラゴンズの試合を観に行ったことがありましたが、
しっかりバレました。(なぜバレたのかは今でも謎です……)
その時、「嘘はバレるんだなぁ」と小学生ながらに反省しました。(良い子は私みたいに、嘘ついて練習をさぼらないように!)
濱野監督は、とても厳しい方で、何度も辞めようと思いましたが、その勇気がありませんでした(笑)
しかし、そのおかげで今の私の土台ができたと思っています。

東海ハンドボールスクールの試合(黄色の2番)

中学でも部活とスクールの両方に所属していて、毎日ハンドボール漬けの日々でした。
部活では、県大会のベスト16で敗れてしまいましたが、JOCジュニアオリンピック大会では、愛知県代表として出場し、自分より上手い選手とハンドボールができて、とても楽しかった記憶があります。
愛知県代表の掛け声「イッーハー・イッーハー」が、なかなか上手く言えず、練習したのが懐かしい思い出です。
 
高校は、長崎県の瓊浦(けいほ)高校に進学しました。
学校が山の上にあり、登校するのに何百段という階段を登らないといけないので、とてもきつかったです。
末岡監督(大同特殊鋼フェニックスOB)のもと、選手一人ひとりの個性を生かした指導をしてもらいましたが、私たちの代は谷間世代で特長も弱く、ポンコツでした。
末岡監督には、たくさんご迷惑をかけただけでなく、たくさんの愛情を注いでもらいました。(瓊浦名物?ダッシュトレが懐かしいです)
 
大学は地元に戻って大同大学進学し、佐藤監督(大同特殊鋼フェニックスOB)の指導のもと、4年間練習に励み、社会人に必要なことや大切なことを多く学びました。
大同大学のハンドボール部には各学年に目標やモットーがあり、当時はなぜ必要なの?と思っていましたが、今ではとても大切なことを学べていたと実感しています。

大学生時代(前から2列目右から2番目)

そして現在は、小学生の頃からの夢だったフェニックスでプレーすることができ、切磋琢磨の日々を送っています。

以上が私の生い立ちになります!

6月1日から小グループごとの練習も始まり、徐々に強度を上げた練習をしています!
今後もみなさんに少しでも勇気と感動を与えられるように、努力していきますのでご声援のほどよろしくお願いします!
また会場でみなさんに会える日を楽しみにしています!

お知らせ

トピックス

2020年シーズンの新ビジュアルが完成しました!

新スローガン「徹底」のもと、結果にこだわりチーム一丸となって頂点を目指し続けます。

ハンドボールを通してみなさまに「勇気」や「感動」を与えられるチームであり続けるように頑張りますので、これからも応援よろしくお願いします。